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「三体」の第三部、「死神永生」をレヴューするにはなんとも間の抜けた時期であることは承知している。私はこれまでこの三部作を刊行直後に買い求め、第一部については2019年に、第二部「黒暗森林」については2021年にこのブログでレヴューした。第一部こそ発行されてまもなく論じているが、第二部については買い求めてから1年経ってからのレヴューとなるし、今回にいたっては翻訳刊行から4年のタイム・ラグでようやく読んだこととなる。この書籍は書架にあって絶えず私に圧力を与え続けてきた。第二部もそうであったが、この小説を読むのにはプルーストとはまた別の膂力が必要であり、読み始めるためには覚悟が要るからだ。別の説明もできる。この小説はSFでありながら、読後感が異様に重いのだ。読み終わることによって一つの世界が完結したという印象が強く。新しい世界を開くためには一定の時間と気合が必要とされる。とりわけ「黒暗森林」の後半のカタストロフは衝撃的であり、この後に新しい物語が開かれることなど想像がつかなかった。しかしこの三部作は真に恐るべき小説である。SFを読み馴れた私にとっても「三体」はとんでもない傑作であったが、それを継ぐ「黒暗森林」はそれを凌ぎ、そしてまた「死神永生」はさらにそれを超える超絶的な内容なのである。今回は物語の内容に相当深く立ち入りながら論じる。それというのも、とりわけ「死神永生」は物語の中で言及される光速で航行する宇宙船のごとく、エピソードが疾走する感触があり、読み終えるや直ちにもう一度エピソードの連なりを確認することなしに論じることが不可能であるからだ。

 冒頭に一つの謎めいた物語が配されている。西暦1453年、オスマン・トルコの猛攻を受けたビザンティン帝国の首都、コンスタンティノープルが陥落する前夜の物語であり、そこには皇帝のもとに出頭した壁を通り抜け、からだに傷一つつけることなく、生きた人間からその脳を取り出す「女魔法使い」が登場する。物語は中絶した印象で閉じられるが、最後まで読むと、このエピソードは未来世界で人類が遭遇する「高次元のかけら」との最初の遭遇の記録であったことが理解される。続いて「黒暗森林」にも登場した楊冬が宇宙と生命に思いを馳せる短い断章の後、これまでのストーリーとは無関係に感じられる二つの挿話が語られる。一つは安楽死が合法化されたという知らせ、もう一つは恒星をオークションにかけて個人に落札させるという「星群計画」という荒唐無稽な事業がユネスコによって実施されたという知らせである。ばらばらのエピソードが語られた後、ようやく本編の主要な登場人物が現れる。一人は雲天明という不治の病に冒された青年であり、彼が大学時代に知り合い、ほのかな恋心を抱いた航空宇宙エンジニア、程心が本編の主人公となる。天雲は思いがけなく得た大金を用いて恒星を一つ落札し、密かに程心に贈る。程心は三体世界の情報を入手することを目的とした機関に職を得て、同僚のヴァディモフや長官のウェイドと出会う。三体世界に諜報戦を挑むという困難な目標を与えられた彼らは、地球に向かって航行している三体艦隊に向けて探査機を送るミッションにとりかかる。程心は核パルス推進という画期的なアイデアを案出し、人工冬眠の状態にある人間を三体世界の心臓部にめがけて送り出す「階梯計画」が始動する。しかしその重量のため人間をそのまま送ることは不可能であることが判明し、ウェイドは脳だけ探査機に入れて送り出すことを命じる。脳のみを取り出すというエピソードが冒頭の挿話と呼応していることは明らかであろう。人工冬眠を施されて脳のみで未知の三体世界へ送られる。想像を絶する任務への志願者は余命宣告された者たちから選ばれることとなった。候補者の中から最適と判断されたのは天明であったが、天明に対する罪悪感にとらわれた程心もまた志願して人工冬眠に入り、このミッションの行方を見定めようとする。

 ここまでで全六部のうちの第一部。「黒暗森林」のみごとなエンディングの続きを期待した読者はいきなりぶっとんでしまうのではないだろうか。人工冬眠という技術が確立されたこの小説においては時間の経過がわかりにくい。私なりに整理するならば、ここで語られる時代は「三体」で宇宙に向けて発射された情報を受信した三体世界が地球に向けて侵略艦隊を派遣したことは判明したが、艦隊の到着まではまだ数百年の余裕があるという「危機紀元」の時代であり、「黒暗森林」から時間を遡っている。したがって三体世界に対抗するために立案され「黒暗森林」で語られた「面壁計画」に並行して進められていたもう一つの計画、「階梯計画」の物語が本書であるといえるかもしれない。しかし第一部の最後で二人の主人公が人工冬眠に入ってしまったため、第二部以降は時代的に「黒暗森林」以降の物語、抑止紀元の物語となるのだ。第二部ではまず三体文明の先遣宇宙艦、〈水滴〉との終末決戦を辛くも生き延びて地球に帰還した航宙艦〈青銅時代〉の運命が語られた後、程心のその後が語られる。時代は危機紀元から抑止紀元へと移る。かつての面壁者の一人、羅輯によって樹立された「暗黒森林抑止」すなわち、宇宙とは他の文明を根絶しようと待ち構える無数の異星文明で満ちており、三体世界の座標を公開しない代償として、地球文明への攻撃を抑止する取引が成立し、つかのまの平和が訪れていた。三体文明の座標を公開する装置へのアクセス権をもつただ一人の人間は執剣者と呼ばれ、羅輯がその任に就いていた。「暗黒森林抑止」のモデルが冷戦下における核抑止理論であることは明白であろう。したがってここで描かれるのは究極の核抑止理論、つまり抑止による世界の存亡が国家や組織ではなく一人の個人の手に握られた世界なのである。「三体」は三部作を通じて、全体主義の完成形、つまり一つの集団の帰趨が一人の独裁者によってのみ決定されるという悪夢を繰り返し主題化しているが、面壁計画の英雄、羅輯の運命はまさにそれを象徴している。執剣者羅輯はその権限の巨大さゆえに逆に人々から忌み畏れられる存在と化したが、地球文明は執剣者を必要とする。この二律背反を解決するために、執剣者の交代が必要となった。候補者の中から選ばれたのは程心であった。候補と選抜もこの小説に繰り返し登場するモティーフだ。新しい執剣者に選ばれた程心はゴビ砂漠の抑止制御センターで羅輯より抑止制御権の移譲を受ける。この一方で地球を遠く離れた深宇宙ではやはり抑止制御機能を備えた航宙艦〈万有引力〉とそれを追跡する航宙艦〈藍色空間〉が逃避と追跡を続けており、さらに三体文明から派遣された探査機、〈水滴〉が二艦を監視していた。しかし二つの艦内では時折奇妙な現象が発生していた。冒頭で暗示された「高次元のかけら」との遭遇である。

 三体文明は狡猾であった。執剣者交代の瞬間を狙って、密かに銀河系内を潜行していた〈水滴〉が、地球の数か所に設置された暗黒森林抑止装置を破壊したのだ。程心は攻撃されることを知りながら、あえて抑止制御装置に手をかけることなく、三体文明の座標は宇宙に送信されることがなかった。かくして暗黒森林抑止の均衡は失われ、三体文明の探査機、〈水滴〉によって地球は攻撃を受ける。人類が生き延びる条件として、すでに三体文明より送り込まれていた小型AIに統御された女性型アンドロイド、智子は人類のオーストラリアと火星および宇宙空間への移住を命じる。このあたりはストーリーを追うことさえ困難なめくるめくエピソードの連続であり、まさにセンス・オブ・ワンダーだ。先の「三体」にファースト・コンタクトやスペース・オペラといった初期SFのエッセンスが盛り込まれていることはすでに論じたが、「死神永生」にも多くの先行作品の反映が認められる。何より未来の年代記、未来史という叙述スタイルは日本でも小松左京の「果てしなき流れの果てに」や光瀬龍の「」を連想させるし、「三体」の中でも言及があったアシモフの「ファウンデーション」三部作に対するオマージュとしてこの三部作をとらえることは間違っていないだろう。三体文明の走狗、智子によって人類が住み慣れた土地を追われるエピソードは侵略SFのヴァリエーションと考えることもできようし、祖国の喪失、他国への移住という主題からはおそらくは中国でも翻訳されている「日本沈没」の影響があるかもしれない。私は多くの魅力的なエピソードを省いて、この小説のメインストーリーのみを追っているが、これほど盛り沢山の物語がつづいてもまだ上巻の三分の二も終わっていないのだ。

 人類は苦難に満ちたオーストラリアと宇宙空間への移住を開始した。一方、遠い深宇宙でも〈万有引力〉と〈藍色空間〉という二つの航宙艦がついに邂逅し、二隻を観察していた〈水滴〉は智子のブラインドゾーンにおいて破壊される。三体文明を超える文明が存在し、しかも異なった文明の殲滅をめざしているという暗黒森林理論を証明する事件であった。合流した二つの航宙艦の乗組員は乗員の多数決によって〈万有引力〉に積載された重力波発信装置(抑止制御装置)を起動させる。これによって三体文明の座標が全宇宙に発信され、他の異星文明からの攻撃を恐れた三体文明は直ちに地球から撤退する。二つの航宙艦の艦内で発生する異常事態は、これらの船が「四次元のかけら」と呼ばれる異常な時空間と接触したためであることが暗示され、さらに乗務員たちはこの空間の中で別の文明、おそらくは別の次元の存在との接触を果たす。それからまもなく地球文明は光粒(フォトイド)と呼ばれる光速の物体の攻撃を受けて三体文明が破壊される様子、文明の滅亡を目撃することとなる。一方で三体文明が地球に残した智子は驚くべき知らせを程心に伝える。雲天明が生きており、程心と会いたがっているというのだ。外宇宙で二人は三体文明の完全な監視の下で再会する、程心は天明から黒暗森林の脅威から地球文明が生き延びる方法を聞き出そうとするが、三体側は三体文明に関する事柄について天明が回答することを厳しく戒め、もし不用意な言葉が発せられた場合は直ちに程心の乗った宇宙艇を爆破すると警告する。この設定自体も異様きわまりないが、天明はかつて程心に語った三つの寓話を再話するという方法によって高次元からもたらされる危機とそれを防ぐ方法を伝える。すなわち王女と王子を主人公として物語の中の物語として語られる三つの寓話、「王宮の新しい絵師」「饕餮の海」「深水王子」である。

これらの寓話に天明が忍ばせたメッセージを見つけ出す作業は地球文明の死命を決することとなる。テクストの解読を主題としたSFなどがこれまでに存在しただろうか。唯一私が連想したのはフィリップ・K・ディックの「父祖の信仰」という短編だ。この短編の中で主人公は「絶対の恩人」が支配する社会において、二つのテクストを与えられ、いずれが熱心な帰依者でありいずれが反乱分子であるかを解読するという任務を与えられる。ディックの短編もまた中国を思わせる人名と監視と密告が常態となったアジアの全体主義国家(ハノイという地名が記されている)を舞台にしていたことは「三体」と不思議な暗合を示している。IDC(情報解読委員会)は直ちに寓話の解読に乗り出す。饕餮という凶暴な魚によって通行を妨げられた海、饕餮を宥める石鹸、不思議な地名、寓話に登場する奇妙なモティーフは一体何の暗喩であるのか。様々な解釈が重ねられ、二層メタファーの解読を通して、地球文明を救うための三つの計画が立案される。木星、土星、天王星、海王星という四つの巨大惑星を掩体として利用し、光粒の攻撃を受けない場所に人類全てを収容可能な宇宙都市を建設する「掩体計画」、太陽系全体を低光速ブラックホールに変えることによって全宇宙から一種の隔離状態に置くという「暗黒領域計画」、そして曲率推進を可能とする光速宇宙船を建造し、地球から脱出するという「光速宇宙船プロジェクト」。寓話の別々の解釈によって成立した三つ計画のいずれが正しいかは定かではないし、そもそもこの中に正しい解釈が含まれているかどうかもわからない。したがって人類はこれら三つの計画を同時に推進することを決定する。果たしてどの解釈が人類を救うのか、それともいずれの解釈も誤りであるのか。ここにも候補と選択というモティーフが登場する。

ここまで大雑把なシノプシスを記した部分で下巻の三分の一くらいまで。このような内容を知っていても読書の楽しみは削がれることはない。逆にこの程度の事前知識があった方が内容を理解しやすいほどにストーリーは錯綜し、奇想天外である。先にも記したとおり、この小説には何組かの人物が登場するが、彼らはしばしば人工冬眠という手段を用いて未来へと越境するので、時間的な関係がもつれあう。随所で語られる最先端の宇宙理論や物理理論も理解を絶するし、以前のブログでも本書に登場するガジェット中、最も抽象的で理解しがたいと説いた智子(ソフォン)なる超小型AIは「死神永世」においてはついに女性型アンドロイドとしてアニメのキャラクターよろしく暴徒たちを日本刀で斬殺するのだ。(英訳では超小型AIとしての智子とアンドロイドの智子はスペリングによって区別されているらしい)そしてエンディングに向かって物語は爆走を始める。実際これより後については私も筋道を立ててストーリーを語る自信がない。巻末の大森望の解説によれば、著者劉慈欣はこの巻については市場的成功が望めないので、ハードコアSFファンである自分が得心のいく純粋なSF小説を書こうとしたという。しかし高次元宇宙や人工ブラックホール、宇宙の熱死といったテーマを散りばめたこの巻こそが欧米のSFファンからは広く受け入れられたとのことであるから、読者の嗜好とはわからないものだ。あえてこれ以後の物語については触れないが、予想通りとんでもないアイデアが炸裂し、天明が語った寓話の驚くべき真の意味も次第に明らかになる。驚くべきことには、ファースト・コンタクトSFとして始められたこの大作は最後に一種の破滅SFへと転換するのであるが、その破滅の意味たるやおそらくこれまでいかなる想像力豊かなSF作家も想像しえなかった内容である。しかもかかるカタストロフは既に天明の寓話の中で既に明確に語られていたのである。

三年をかけて「三体」三部作を通読し、私はSF小説の地平がさらに広がった印象がある。先にも述べたとおり、異なったいくつものSF的主題をその中に収め、21世紀に中国からかくも壮大なSFが出現するとは以前の常識からは想像すらできなかった。しかし同時にこの大作は現在の中国という国家体制の強い影響を受けているようにも感じられた。三部作のいずれの巻においても、個人もしくは数名の選ばれた者たちが世界の、地球の、宇宙の命運に決定的に関与するという状況が描かれる。葉文潔という一人の女性が発した信号が三体文明に届き、地球が侵略されることとなる。四人の面壁者の計画が人類の運命を定める。程心という女性の逡巡が黒暗森林抑止の均衡を破る。かかる発想は全体主義と親和する。折しも、私たちは現在の中国の最高権力者が慣例を破って今後も党の最高位に君臨することが党大会で決定されたというニュースを受け取ったところである。個人に対するかかる絶大な権力の委譲という発想は少なくとも欧米の民主主義国家ではありえないだろう。ここに登場するのは科学的エリートや様々な意味で特権的な位置にある人物ばかりであり、市井の登場人物をほとんど欠いている点に本書の欠点を指摘することは可能かもしれない。ただし「ファウンデーション」におけるハリ・セルダンを連想するまでもなく、ファースト・コンタクトや未来史といったSF的主題はこのような物語の枠組に収まりやすい。

「死神永生」において私が最も強く感銘を受けたのは、物語を解読することによって地球文明の運命に関する決定的な情報を入手するという発想である。実はこの点にこそ作家が本書に込めた深いメッセージがあるのではなかろうか。SFというのはある意味で最も遠くまで想像力を広げることができる文学のジャンルである。このような文学に表現や思想の自由を禁じる全体主義体制は本来馴染まないはずだ。天明が語る寓話に地球文明が生き残る方法を見出そうという試みはテクストに秘められた別のメッセージを読み込むというまことにテクスチュアルな実験でもある。この時、「三体」自体も別のテクスト、別の意味をはらむということは考えられないか。もちろんこの小説に現在の共産党政権への直接的な批判が読み込める訳ではない。しかしテクストに埋め込まれた意味を解読することによって別の意味の次元が開けるという実験があえて主題化されている点に著者の現体制への抵抗への意志を認めることはうがち過ぎであろうか。知られているとおり、中国共産党の治下においては档案と呼ばれる個人情報の文書記録が人々を支配した。それが人々の迫害のために悪用されたのが、文化大革命期であったことを思い浮かべるならば、文化大革命における自己批判と惨殺のエピソードに始まったこの物語がかかる構造、テクスト内で反転し、錯乱する意味を内在させることには一種の必然性があるのかもしれない。


# by gravity97 | 2022-10-25 20:32 | エンターテインメント | Comments(0)

 鷲見和紀郎は以前から関心をもっていた作家であるが、関西圏では発表の機会が少なかったこともあり、私が作品を明確に覚えているのは東京国立近代美術館が企画して国立国際美術館に巡回した「形象のはざまに」に出品された作品くらいしかない。今回、BankART 1929で開かれた「SUMI WAKIRO : brilliant corners」もまた東京圏での展示であったが、近作というより回顧的な展示であると知り、横浜まで出かけた。わざわざ足を運ぶに足る充実した展示であり、多くのことを考えさせられる内容であった。

 1980年代に作家活動を開始した鷲見は世代的に微妙な位置にある。鷲見が李禹煥や田中信太郎のアシスタントをしたというエピソードは興味深いが、鷲見は明らかにもの派の世代には属さないし、もちろん80年代のいわゆるニューウエーヴの世代とも異なる。これは世代的なギャップであるが、一方で鷲見の作品はいわゆる量塊的な彫刻や構成的な彫刻とも明らかな距離をとる。Bゼミで藤枝晃雄に学び、アメリカに長期滞在した経験のある鷲見の作品がしばしば参照するのは絵画、それも抽象表現主義の絵画であるよう感じられるのだ。今回の会場は比較的狭いため、鷲見の仕事の全幅が一覧できる訳ではないが、さいわいこの展示に際して多くの写真が収められた資料性の高いカタログが発行されているので、そちらにも目を通しながら、鷲見の作品をたどっていくことにしたい。

 1977年頃にBゼミや田村画廊で発表した初期の作品はミニマル・アートとあるいはプライマリーストラクチュアの影響を強く受けている。鷲見は76年にニューヨークに滞在しているからその影響であることは容易にうかがえる。モリスのいうユニタリーな形態、あるいはジャッドやウォルター・デ・マリアを連想させる規則的でリジッドな形態が使用された金属製の作品であり、今回も十字状の立体作品が一点出品されていた。もの派やミニマリズムを超えるうえで抽象表現主義絵画が参照された点は理解しやすい。鷲見は「ジャクソン・ポロックのように彫刻を作りたい」という言葉を残しているが、このうえではロストワックスという特殊な鋳造手法が一つの手がかりとなった。表面に刷毛でワックスを塗り重ねる手法によって、素材に流動性が生まれる。鷲見はワックスに金属粉や絵の具を混ぜることによって独特の表面を創り出すことに成功した。このような手法から連想されるのはリチャード・セラが溶かした鉛を投げつけて制作した一連の仕事である。セラはレオ・キャステリ・ギャラリーの倉庫の壁に向かって鉛を投げつけたが、結果として作品が強い軸性、垂直性と水平性を帯びることは容易に想像がつく。実際に80年代の鷲見の作品においても軸性が強調され、時に壁面に設置されるとともに垂直や水平といった言葉がタイトルとして用いられる場合もある。これらの作品はブロンズとして鋳造されているが、80年代中盤より鷲見の関心はワックスという素材そのものへと向かい始めたように感じられる。

 ワックスは特殊な素材である。熱することによって流動性を獲得し、冷えると硬化するという性質は液体と固体の中間的な特質を帯びている。このような特質は表面を覆う滴りや流れの痕跡としてブロンズの固体の中に成型されるが、作品の最終的な形態から作品が生成された過程が推測しうるという意味においてもポロックのポアリング絵画と共通する。かつてロバート・モリスはポロックの絵画のかかる特性を高く評価するとともにアンチ・フォームと呼ばれる自らの作品の原理として適用した。したがって鷲見の作品がキース・ソニアやエヴァ・ヘスら可塑的な素材を使用した一連の作品と近似する印象を受ける点になんら不思議はない。実際に私は先述の「形象のはざまに」に出品された壁面設置の作品からキース・ソニアが1969年の「アンチ・イリュージョン」展に出品した《群れる壁》という作品を連想したのであった。そして作品の形状から連想したもう一つの先例はモーリス・ルイスのヴェイル絵画であったが、この連想はあながち的外れではないはずだ。なぜなら鷲見は後年(カタログを参照するならば個展のタイトルに用いられるのは95年であるが、おそらくはそれより早く)、ヴェイルと題された一連の作品を制作することになるからだ。鷲見はヴェイルというコンセプトを着想した契機が1976年にナイアガラ瀑布を訪れ、滝壺の裏側を見る体験であったことを公言している。鷲見はカスケードと題された作品もいくつか制作しているし、ヴェイルというタイトルを冠した一連の作品は瀑布を彫刻化した印象を受けないでもない。ヴェイルという概念については今回のカタログ中に松浦寿夫による充実した論考が再録されており、あらためて今までこの作家の発表を持続的に追うことができなかったことが悔やまれる。

 ヴェイル・シリーズも含めて鷲見の多くの作品に共通するのは正面性である。時に壁を支持体として設置される作品が強い正面性を帯びることは必然であり、安定した視野を得ることによって表面のテクスチュアに関心が向けられることも容易に理解されるだろう。今述べたワックスという素材の特殊性、作品が生成される過程が形状として記録される特性に関してかかる正面性はしばしば作品の垂直性と深く関わる。なぜなら表面に残されたワックスの滴りは多く重力に従って上方から下方へのヴェクトルを有すからだ。出品作中、最大級の《The Rain》という2001年制作の作品は、螺旋状に広げられた塔状の形態のブロンズ立体であるが、表面に残された流れの痕跡がまさに雨滴のような印象を与え、風雨を閲した建築に対峙しているような印象を与える。今、建築という言葉を記したが、鷲見の彫刻は強く観者の参与を求めるように感じられないだろうか。作品のスケールが身体に親和し、正面的で時に内と外をもつ構造(ヴェイルとは本来内と外を分かつ幕の謂ではなかったか)はたやすく観者が立つべき場所を指定する。かかる構造が抽象表現主義絵画を連想させることはもちろん偶然ではない。ポロックにせよニューマンにせよ(画家が求めるように)近接して眼差しを向ける時、視覚を超えて広がる画面のディテイルは特殊な知覚を要請するが、鷲見はこの感覚をさらに伸張させる。すなわち会場入口近くの一角を区切って構成された内部に通路を有するワックスの立体の体験である。高さが1メートルをやや超える白いワックスの巨大な広がりは幅70センチほどの局面の通路を内部に収めており、観者はその通路を歩くことができる。ただし通路の一端は閉じられているため、私たちはこの空間を二つのワックスの塊ではなく、あくまでも内部を通行可能なワックスの塊としてとらえることになる。この時、私たちは作品の広がり、表面の独特のテクスチュアを上から見下ろすかたちとなる。知覚を超えた巨大な表面が絵画として壁に対して横向きに広がるだけでなく、奥行きに向かっても広がるのである。通路の形状をとった作品はブルース・ナウマンらにも先例があるが、作品の表面を主題とする鷲見にとってこの作品はインスタレーションではなく彫刻、いや彫刻=絵画としてとらえられているように感じられた。

 このように考える時、今世紀に入って開始された「ダンス」というシリーズもまた興味深い。セロニアス・モンクが演奏中に踊り出す情景にインスパイアされて制作されたというこのシリーズは直立する形象と上部から突き出た二本の曲線が明らかに人体を模している。最後のコーナーにワックス彫刻を建築に絡めたいくつかの作品のプロトタイプというか縮小模型が展示されていたが、そこには作品のミニチュアと一緒に同じ縮尺で縮められた人の模型(顔も写真として取り入れられており、私の知り合いもいた)が配置されていた点は示唆的であった。作品のサイズが身体と親和する点については先に述べたが、多くのワックス彫刻はそれを見る者、それも抽象的な来場者ではなく、現実の身体と視覚をもった人を必要とするのである。この意味で「ダンス」シリーズはワックス彫刻のカウンターパートといえるかもしれない。今回、会場には蛍光管と直立するブロンズが対置される作品は設置されていたが、「ダンス」シリーズはなかったと記憶する。私たち来場者がその身代わり、作品の尺度となることが求められているのであろうか。

鷲見の作品を眼前にする時、私たちは作品の体験とはいかなることであるかを考える。そして鷲見の作品の体験はこれまで私たちが馴染んできた近代彫刻の体験ともミニマル・アートにいたる現代彫刻の体験とも異なることを知る。

 


# by gravity97 | 2022-10-11 20:43 | Comments(0)

 市原佐都子の演劇については、前回のあいちトリエンナーレにおいて上演された「バッコスの信女―ホルスタインの雌」が大きな話題になったこともあり、以前から関心を抱いていた。演劇の鑑賞は地方在住者にとってはハードルが高いが、幸い豊岡演劇祭での上演に赴くことができた。予想をはるかに超え、きわめて問題提起的で重い内容であった。残念ながら今回は公演パンフレットが用意されておらず、ただ一度の観劇の記憶に頼ってレヴューするため、誤解や勘違いがあるかもしれないことを最初にお断りしたうえで、このひりひりするような演劇について論じたい。

 上演後の市原と相馬千秋のアフタートークは、この演劇の内容を理解する上で大きく資することとなった。この作品は彼女が主宰する劇団Qとチューリッヒにあるノイマルクト劇場の共同制作であるということだ。タイトルがプッチーニのオペラ『蝶々夫人』を引いていることは誰にでもわかる。ここで留意されるべきは、この作品が最初ヨーロッパの劇場で上演され、俳優も日本人と白色人種と有色人種(この演劇の内容に鑑みてあえてこのような表現をとる。映像で出演した俳優も含めてノイマルクト劇場所属の俳優の国籍については情報がない)であり、使用される言語も日本語と英語とドイツ語である点だ。字幕が映示されるから内容を理解するうえでの障害はないが、この演劇が非日本語圏で構想され、最初に上演されたことは常に念頭に置くべき前提であろう。

 タイトルからして物語はおそらく『蝶々夫人』を準拠枠にして進められるであろうという私の予想は最初から裏切られた。最初に舞台に登場する日本人の女優はいきなりこてこての関西弁で自分の容姿について不満をぶちまける。それに対して左右のスクリーンにアバターとして投影される二人の女優(一人は日本人、もう一人はステレオタイプのアメリカ娘ともういうべきグラマラスな女性)が応じる。そこから浮かび上がるのは容姿に関する日本人のインフェリオリティー・コンプレックスと白色人種の理想化である。このような主題が抽出された意味は理解できる。『蝶々夫人』においてもアメリカの海軍軍人ピンカートンと蝶々の関係は常に非対称であり、西欧の優越が貫徹されているからだ。私は事前に『蝶々夫人』のあらすじを確認してからこの舞台に臨んだ。没落士族の娘、蝶々は長崎に来航した海軍士官ピンカートンと結ばれ、改宗し下女とともに暮らす。しかし3年の後、ピンカートンは任務を終えて妻子を残して本国に帰り、別の娘と結婚する。再び長崎を訪れたピンカートンとその妻ケイトに会った蝶々は二人を祝福した後、父の遺品の刀を用いて自刃して果てる。確かにオリエンタリズムと有色人種への差別意識がないまぜになった内容であり、今日的な意識に立つ時、このオペラが現在も広く上演されていること自体が不快に感じられるかもしれない。しかし問題はさらに根深い、日本と西洋の非対称、蔑視と優越感、支配と被支配、この構造は現在もオペラが発表された時代と変わっていないのではないかという不全感がおそらくは市原を「マダム・バタフライ」の制作に向かわせたのではなかろうか。

 今なお私たちには白色人種に対する根強いコンプレックスが存在する。市川はこのような劣等感を過激な言葉によって執拗に抉る。例えば劇中で日本の公立学校でALT(外国語指導助手)を務める白人男性の告白がなされるが、それによればどんなに容姿が劣った男であったとしても日本では白人であれば女性と容易に性的交渉をもつことができる。あるいはアバターとして「右翼の女」と「左翼の女」なる女性が投影され、前者は女としてのセックスアピールによって、後者は日本人らしいコケットリーを用いて、いかにして白人の男性、すなわちガイジンとの性交が可能となるかについて滔々と語る。今私は性的交渉とか性交といった比較的上品な言葉を使っているが、劇中で用いられるのはそのものずばりの下品なスラングであることも言い添えておこう。話し言葉と字幕を通して卑猥な言葉が頻繁に交わされる中で観客は居心地の悪さを感じざるをえない。なぜなら三人の俳優同士は相互にほとんど関係することがないから、それらの言葉が私たちを挑発するために発せれていることは明らかなのだ。豊岡の観客はほとんどが日本語を母語とした日本人であった。したがって英語ないしドイツ語が発せられる場面では必ず字幕が示される。同様にほかの国で上演される場合は別の言葉が字幕として提示されているはずだ。つまりこの演劇は見る者の属性を問うのである。属性は言語だけではない。人種、国籍、そして性差。これらの属性の非対称性がこの作品の主題であることは明白だ。しかし市原は時にかかる前提を突き崩す。白色人種の女優はピンカートン、つまり海軍の軍服を装着した男性としての自らの思いを英語で朗々と論じた後、蝶々を演じる日本人女優に対して背後から模擬的な性交を始める。

 この後、場面が転換し、俳優たちは役から解かれて楽屋のような場所で雑談を始める。演劇の審級がメタレヴェルに引き上げられたことがわかる。映像を介してこの会話に加わるのは髪をピンクに染めたアフリカ系の女優である。コロナ感染症に罹患したためにオンラインで会話に加わったという設定のこの女性にはなぜか冬子という日本人の名が与えられている。彼女はおそらくこの演劇の制作者であり、市原の位置を占める人物であることがわかる。交わされる会話は最初こそ猥雑でとりとめのない内容であったが、次第にキャスティングをめぐる辛辣な罵りあいへと転じる。つまり彼らが俳優に抜擢されたのは劇団のやむを得ない事情によるものであり、本来は別の俳優が演じることになっていたという告発がなされるのだ。与えられた役割を離れて俳優同士が険悪な関係になっていくこの場面も観客としては実に居心地が悪い。そもそもなぜここで「マダム・バタフライ」という芝居の枠を超えたメタレヴェルの物語が介入するのか。この疑問が解けたのはアフタートークにおいてであった。このような事情は今回、この演劇を共同制作したノイマルクト劇場というチューリッヒの小劇場にとっては現実的な問題であったらしい。実際に今回の上演にあたってノイマルクト劇場のドラマトゥルク(耳慣れない言葉なので調べてみた。劇場の相談役のような立場らしい)は市原にこの部分を削除することを求め、その方が演劇の質がよくなるとアドバイスしたらしい。アジア人女性である市原がチューリッヒの劇場で作品を制作するということは、ピンカートンと蝶々まではいかずとも圧倒的な権力の不均衡の場に身を置くことであり、この時、「蝶々夫人」が無意識的に主題化した人種、国籍、言語、性差間の暴力的な関係は現実の市原に及んだことが理解される。興味深いのは、ドラマトゥルクや劇場の支援者は自分たちがこの部分をカットすることによって劇の質が向上するという善意に基づいてそのようなアドバイスを行っていると信じていることだ。ここには私たちが歴史の中で数限りなく目撃してきた善意の名を借りた暴力と検閲、強者の傲慢と無知が暗示されている。それは西欧男性のドラマトゥルクと日本人女性の劇作家の関係に限らない。西洋と日本、男性と女性、宗主国と植民地、いずれも「蝶々夫人」と深く関わる主題において、強者の側から弱者に一方的に通告される善意だ。市原は「善意のアドバイス」に迎合することなくこの演劇を自分が考えていたかたちで完結させた。私はこの作品をヨーロッパで上演した際の観客の居心地の悪さは今回の比ではなかっただろうと感じる。しかし確信犯的にそれを完遂した点に市原の劇作家としてのプライドと確信を感じて感銘を受けた。

 演劇が再開される。しかし居心地の悪さは変わるところがない。相変わらずここに引用することがためらわれる下品な言葉で白人男性と日本人女性のセックスの詳細、性器の大きさの不一致などが語られる。繰り返すが、それは俳優同士の会話ではない。観客に向けられた台詞なのだ。(最後の場面ではもはや俳優自身が語ることさえなく、リップシンクで台詞が導入されていた)さらに身体に関わるいくつかの不快な主題が導入される。例えば生理と腋臭だ。女優と男優の語りを通して繰り返されるこのような話題は通常の会話では忌避されるはずであるが、性的なスラング同様に意図的に繰り返されて、観客を刺激する。おそらくこの二つは女性と男性の身体に固有のネガティヴな特質として提示されているのであろう。「マダム・バタフライ」というタイトルが冠せられているから最後に自らに刀を突き立てる最後のシーンは予想されたとはいえ私には唐突に感じられた。いや、それは演劇の中で幾層にも重層する意味と自分に向けられた挑発の中でもはやストーリーを追う能力が麻痺していたせいかもしれない。

 私たちは本質においていくつも属性の塊だ。私であれば日本語を母語とする日本人男性であり、容姿を含めて他者と交換不可能な身体をもつ。しかし私たちは自分の属性の交換可能性を夢想することがある。そもそも演劇という営み、俳優という役割は本質的にそのような幻想の上に立脚しているはずだ。今回の舞台にはその場には実在しない俳優=アバターが導入されている。私たちはゲームやSNSの中で自分の分身としてアバターを利用することがある。アバターとは自分の分身、しばしば理想の分身である。この意味で劇中、アバターがセーラームーンに変身するシーンは象徴的といえよう。しかしこの舞台は実はその不可能性、そして属性の間の非対称を生々しく描き出しているのではなかろうか。この舞台においてはアバターという虚構の存在が介入するため、俳優という生身の存在相互の関係性が希薄である。代わって俳優、そしてアバターは私たち観客に直接語りかける。私たちが感じるなんともいえない居心地の悪さはこの点に起因しているだろう。私はこの演劇は俳優たちによって演じられるのではなく、俳優やアバターと観客の間で演じられているように感じた。この時、通常の演劇であればなんら問題とされることのない私たちの属性そのものが上演を通して問われるのだ。日本人/白色人種、男/女といった属性は演劇においては約束事として存在する。女優が軍服を着て、ピンカートンを演じるのはそれが約束事として成り立っているからである。しかしもはやそれが成立しないとすればどうか。俳優は誰かの役を演技するのではなく、生身の身体、いや生身の属性として舞台の上に立っており、私たち観客も複数の属性を徴されて、観客を演じる観客として彼らに対するのだ。かかるメタ演劇の試みはかつて寺山修司らによって演劇の形式を通して探求された。市街劇、書簡演劇、あるいは「観客」を主題とした演劇。しかし市原は形式ではなくまさに内容を通して、演劇の場に生身の俳優と生身の観客が出会う場所を構築したとはいえないか。ここに市原の演劇の前衛性と他に例のない過激さがある。

 インターネット上から入手したイメージを添える。万が一、著作権に関する問題があれば削除するので連絡をいただきたい。


# by gravity97 | 2022-09-30 20:42 | 演劇 | Comments(0)

 以前より気になっていた作家の短編集を読む。煙草を指にはさみ、何かを見つめている表紙の著者ポートレートがよい。ルシア・ベルリンは「知る人ぞ知る」作家で、著書も絶版が多かったが、2015年に本書にも跋文を寄せているリディア・デイヴィスの手によって全作品の中から43編を選んだ作品集が刊行されたことによってあらためて注目を浴びた。本書の訳者である岸本佐知子もデイヴィスを通して彼女の作品を知ったという。作品集に寄せたデイヴィスの「物語こそがすべて」という解説の冒頭の一文がこの作家の魅力をうまく伝えている。引用する。


ルシア・ベルリンの小説は帯電している。むきだしの電線のように、触れるとビリッ、バチッとくる。読み手の頭もそれに反応し、魅了され、歓喜し、目覚め、シナプス全部で沸きたつ。これこそまさに読み手の至福だ―脳を使い、おのれの心臓の鼓動を感じる、この状態こそが。


 本書にはデイヴィスがコンパイルした作品集からさらに厳選された24編の短編が収録されている。確か最近、日本でもさらにもう一冊、短編集が刊行されたから、おそらく現在では主要な短編を日本語で読むことができるようになったはずだ。収録された作品はいずれも短い。例えば文庫版にして10ページほど、冒頭の「エンジェル・コインランドリー店」はこんな内容だ。

 舞台はニューメキシコ州のアルバカーキ、語り手である私、ルシア(つまり作家本人)はエンジェル・コインランドリー店の常連。この地域にはいくつかコインランドリーがあるが、大学の近くの店は染色が禁じられているのでこの店に通っている。この店に通うのは旅行者とインディアンたちだ。この店で私はトレーラーハウス住まいで飲んだくれのインディアン、トニーと出会う。私は時々、店主のエンジェルとともに酔いつぶれたトニーを介抱する。私は過去に暮らしたニューヨークのサン・ファン・ランドリーで出会ったミセス・アーミテイジの思い出を重ねる。私はある日、コインランドリーでトニーと交わした会話を思い出し、それがこの年老いたインディアンを見かけた最後であったことに思い至る。

 ほとんど物語らしい起伏はない。しかし私は最初の短編を読むや、この作家につかまれたように感じた。収録された短編は多くがこのような内容だ。例えば、同じコインランドリーを扱った「今を楽しめ」は、洗濯と乾燥を終えたばかりの別の男の洗濯機にうっかりして洗剤とコインを投入してしまったために、洗濯を終えることができなくなって激怒した大男に詰め寄られるエピソードだ。アメリカで暮らしたことがあれば、多くの場合、洗濯という仕事はコインランドリーで洗濯と乾燥がセットとなった長い時間を要する作業であることを知っているから、休み時間がなくなって憤慨し、不平を並べるレッカー車の運転手の言い分も理解できる。しかし誰であろうと、このような小さな諍いをだ一つの短編小説へとたやすく昇華することができるだろうか。そしてどの小説もまさに「帯電した」という言葉がふさわしい不穏さを帯びているのだ。

 きわめて独特のテイストをもった作家であるが、強いて近似した印象を受けた作家を挙げるならばレイモンド・カーヴァーであろうか。カーヴァーもまたほとんど日常と区別することができない出来事を小説へと転じるミニマリズムの名手であったが、カーヴァーとベルリンには決定的な差異がある。ベルリンの場合、おそらくすべての短編が彼女自身の生涯と深く結びついているのだ。この短編集を読み進めるうちに収録されている短編が主人公の境遇においていくつかのまとまりを示していることがわかる。鉱山町での幼少期、テキサスで祖父母と暮らした暗鬱な少女期、一転してチリでいわば宗主国の令嬢然とした華やかな生活、再び暗転し、表題作が暗示するとおり生活のために他者に奉仕する毎日、そして死にゆく妹の傍らで過ごす日々。表紙裏に記された作者の略歴を読むならば、それがベルリンの一生を正確になぞっていることが理解できる。すなわち「1936年、アラスカ生まれ。鉱山技師だった父の仕事の関係で幼少期より北米の鉱山町を転々と、成長期の大半をチリで過ごす。三回の結婚と離婚を経て四人の息子をシングルマザーとして育てながら、学校教師、掃除婦、電話交換手、看護助手などをして働く。一方でアルコール依存症に苦しむ。20代から自身の体験に根ざした小説を書き始め、77年に最初の作品集が発表されると、その斬新な『声』により、多くの同時代人作家に衝撃を与える。2004年逝去」作者ベルリンの生涯は起伏に富んでいる。むろんそれが直ちに小説に反映される訳ではない。デイヴィスは彼女の創作の手法を「オートフィクション」というフランス由来の概念で説明する。おそらくはオートバイオグラフィーとフィクションを合成した言葉で、実体験を脚色して提示する手法である。確かにアメリカの帝国主義に反発する尼さんの教師とともにチリの貧民街と孤児院で奉仕活動を続けながらも彼らに対する共感を一切抱くことなく、最後には教師が追放される事件を引き起こすエピソード(「いいと悪い」)から女子刑務所内の文芸クラブの活動を描いたエピソード(「さあ土曜日だ」)まで事実との距離を微妙に違えながら、時に緊張感をたたえた、時にユーモラスな語りに彩られた様々な短編が連なっている。

 もちろんいくつかの共通する主題を見つけることは可能だ。表題作はバス路線名を最初に掲げ、掃除婦としてその路線を用いて通う様々な家庭や事業所の内情についてコメントする内容であり、「喪の仕事」という短編もタイトルから予想されるとおり、持ち主が亡くなった家を訪れては、そこに残された品物を処理する掃除婦の物語だ。「最初のデトックス」の主題である禁酒をめぐるエピソードは飲酒する当事者こそ多様であるが、多くの短編にちりばめられている。これらの主題が著者ベルリンの閲歴のうち、シングルマザーとしての(多くが他者のために奉仕する)労働、あるいはアルコール依存症との格闘と深く関わっていることも明らかである。作家の生涯が濃厚に反映されているからであろうか、本書を読み終えて、私は人生とは何かという問いを思いがけず意識した。ベルリンの一生は過酷といえば過酷、平凡といえば平凡なそれであった。私たちは皆、連なる短編小説のような一生を生きているのかもしれない。彼女の小説では人生が切り取られ、投げ出されるように提示される。形式に関して言えばこの短編集はその魅力を比喩の巧みさに負っているが、彼女が用いる比喩は隠喩ではなく換喩である。言い換えよう。ここで語られるのは「掃除婦のような人生」ではなく「掃除婦の人生」なのだ。私たちは他者との比較によって語られることのない私だけの人生を生きている。ここに収録された短編を読むと、この当たり前の事実があらためて浮かび上がる。私たちの人生は誰か、あるいは何かと比較されるためにあるのではない。どのような人生も一度きりのかけがえのない人生なのだ。アルコール依存に陥り、妹の死の床に長く立ち会ったベルリンの人生は苛酷であったかもしれない。しかし一方で、そこには例えば「エルパソの電気自動車」や「セックス・アピール」といった短編から明らかなユーモアや楽しみもあったはずだ。きついけれども捨てたものでもない。私が本書から受け取った人生についてのメッセージはこのようなものであった。

 アラスカ、エルパソ、アルバカーキ、サンチャゴ、そしてニューヨーク、多く鉱山と関係した荒涼とした土地の移動を繰り返すことによって作家の人生は転変し、その中で切り取られた印象的な光景にベルリンは言葉を与える。他者に物語を伝えることにベルリンはどの程度意識的であっただろうか。絶版の古書としてしか顧みられることのなかった彼女の著書はそれによってインスパイアされた作家たち、そして本書の訳者である岸本佐知子の手を介して私に届けられた。本書はことさらにジェンダー的主題を喚起する内容ではないが、仲立ちをしてくれた作家や訳者の多くが女性である点は作家への共感と関わっているかもしれない。何についてのレヴューであっただろうか、私は詩や小説を書くという営みは投壜通信であって、誰に届くかはわからないけれど、いつかは届くかもしれないという希望とともに投じられたメッセージであると記した覚えがある。デイヴィスが解説の中で同じことを印象的な比喩によって論じている。「たとえ時間はかかっても、最上の作家はいつかはきっとミルクのクリームのように表面に浮かび上がってくる。―そして正当な評価を受けて、世界に広く知られるようになる」混迷する世界の中で、遠い世界から漂着した投壜、長い時間をかけて浮き上がってきたクリームとして私はこの小説を味読した。読書という体験の至福を味わう瞬間であった。


# by gravity97 | 2022-09-22 20:32 | Honsket 業務用加湿器 大容量 8L 電解水除菌 タワ Honsket 業務用加湿器 大容量 8L 電解水除菌 タワー型 超音波加湿器 床置き 上から給水 お手入れ簡単 恒湿機能 アロマオイル対応 タイマー付き ホワイト | Comments(0)

 本書は朝日新聞の花形記者として「吉田調書」スクープで名を轟かせた筆者が、一転してこの報道を誤報として断罪され、最終的に朝日新聞社を退くまでの過程を関係者の実名とともに回顧した生々しい記録である。

 「吉田調書」スクープについては私にも明確な記憶がある。原子力災害が発生した後、福島第一原発にいた所員の九割が吉田所長の命令に背いて第二原発に避難したこと、この間も事故を起こした原発は暴走を続けたこと、避難した所員の中には事故対応に責任がある部課長級の東京電力社員も含まれていたことが震災から3年後、2014520日の朝日新聞朝刊一面で報じられた。本書にはこれ以上の記述はないが、私の記憶によればこの過程で原発近くのコンビニで商品が略奪されたというエピソードも報じられていたのではなかっただろうか。誤解なきように言い添えるが、私は命令を無視してコンビニからペットボトルを持ち去って被害の軽い発電所に逃げ出した東京電力の社員を軽々に批判するつもりはない。自分がその立場にいたら、命の危険を冒してまで爆発寸前の発電所に留まり、職務を遂行しえたか自信がないからだ。原子力発電所という存在自体がそのような非人間性を秘めていること、そして東京電力という企業がその事実をひた隠しにしたことこそが問題の核心なのである。スクープ記事の論調も同様であったと記憶する。しかしながらこの記事によって、原子力発電所に残った一部の所員たちの行動の美談、「フクシマ・フィフティ」なるプロパガンダ映画にまでなった関係者の「英雄的な活躍」が真実からは遠いことが明らかになった。テレビ会議の映像に音をかぶせて隠す東京電力の姑息な手法を見破り、密かに入手した吉田所長の事故調査・検証委員会に対する証言、いわゆる吉田調書と綿密に突き合わせることによって、責任を放棄して原発から逃げ出す東電の社員たちという事実を白日のもとにさらした調査報道のお手本のようなスクープであった。この記事には続報も続いて、私はあらためて東京電力という企業が公共性からほど遠いことを知った。

 スクープ直後は社長賞、新聞協会賞は間違いないと絶賛され、多くの同僚から賛辞を寄せられた「吉田調書」報道は、直後に暗転する。当時も奇妙に感じられたのであるが、今回、本書を読み終えても、このスクープ自体に大筋で大きな瑕疵があるようには思えない。攻撃は別の「吉田」、従軍慰安婦問題に関して朝日新聞が過去に記事化した吉田清治の証言、「吉田証言」が虚偽であったことを85日に認めて記事を取り消したことによって開始された。さらにこの問題についての対応を批判した池上彰のコラムの掲載を拒否した「池上コラム問題」が追い打ちをかけることとなり、911日には木村社長が引責辞任を表明することとなった。しかしなんとも不思議なのはこの辞任の理由として今挙げた三つの問題のうち、「吉田調書」のみが挙げられていた点である。普通に考えるならば、自社のコラムに編集サイドが介入することこそが、新聞の自殺であり、最も罪が重い。しかもこのような判断はこのコラムに激怒した木村社長によってなされたとされている。さらに言えば、「吉田証言」問題は既に記事が掲載されてから数十年が経過しており、以前からこの証言の信憑性については朝日新聞社内でも疑問が呈されていたという。それならばなおさら、なぜこのタイミングでこのような謝罪が行われたかが問題となる。この点はそれこそさらに「調査報道」されるべき謎ではないか。鮫島自身は「吉田証言」問題は社内でもリスク案件であり、誰がどの時点で記事を撤回するかについては新聞社内で人事と絡めた暗闘があったことを示唆している。結果的に社長は「吉田調書」を自身の辞任の理由とすることによって、自身の判断が関与した残り二つの案件の責任に頬かむりし、鮫島を含む関係者に責任を押しつけたのである。追放された当事者の主張とはいえ、大まかな見立てとしては間違いないように感じた。しかしその代償はあまりにも大きかった。右派からの朝日バッシングは熾烈をきわめ、結果として朝日のみならずジャーナリズム全体が委縮してしまったのだ。安倍・菅という最悪の政権のもとでいかにジャーナリズムが劣化したかについては今さら詳細に論じるまでもないだろう。

 いきなり本書の核心について記したが、以上の出来事は本書の最後の二章で論じられるに過ぎず、全体として本書は鮫島の回想のかたちをとりながら、政権中枢と新聞記者がいかなる関係にあるかを経験に基づいて説得的に論じている。新人記者として水戸支局に赴任した後、政治部と関係の深かった支局長に指名されて若くして政治部へ転出し、政治家の番記者として政治の中枢に食い込んでいく様子が回顧されるが、正直言って前半部は書き手の自画自賛が鼻につく。冒頭部で解職直前に妻と訪れたレストランで妻から傲慢さをなじられる描写があるが、辣腕記者であるためにはある程度の傲慢さが必要かもしれないとは思う一方で、新聞記者は政治家と個人的な関係を築かない限り相手にされないこともよく理解された。対象とこれほど密着しなければ記者としての仕事が務まらないことは私には意外であったが、この関係の中で記者も政治家を月旦する。福田内閣の町村信孝にはじまり、小渕政権における総理番、野党時代の菅直人、小泉政権における竹中平蔵、「抵抗勢力」の古賀誠、そして第一次安倍政権の与謝野馨、鮫島が担当する政治家はめまぐるしく変わり、与党と野党、改革派と守旧派を行き来する。このあたりは裏の政界事情としても興味深い。鮫島は記者を手玉に取る古賀誠の政治家としての奥深さに感嘆し、与謝野馨の懐の深さに感銘を受ける。この個所の記述を読むと政治家の劣化もまた悲惨であることに気づく。その最たる例が安倍と菅だ。かつては適度の緊張感があり、受け答えにも一種の余裕と相互の信頼がうかがえた与謝野の官房長官としての会見に比して、何を聞いても「問題ない」「批判はあたらない」で返す菅義偉という最低の政治家とそれに唯々諾々と従う記者クラブの番記者たちのみじめな姿を私たちはずっと目撃してきた。

 語られるエピソードの中で興味深かったのは政治部長だった論客、若宮啓文が鮫島に語ったコメントだ。権力とは何かという問いに対して、若宮は「経世会、宏池会、大蔵省、外務省、そしてアメリカと中国」であると簡潔に応じたという。政治の中心に身を置いた若宮ならではの認識であると感じるとともに、これらのシンジケートによって行使された権力がいかに自由や民主主義からかけ離れたものであるかも推察される。さらに興味深いのは私が嫌悪する安倍・菅という腐敗政権が明らかにこれらへの対抗軸を形成しようとしていた点だ。清和会、経産省と警察官僚、アメリカと中国ならぬアメリカに一方的に屈従する政策は若宮のいう権力の所在が入れ替わるどころか、かつて例のない人倫の荒廃をこの国にもたらした。ジャーナリズムに関しても、安倍らは盟友のトランプに倣って、味方と敵を峻別し、従順な記者たちを優遇する一方で批判的な記者たちを攻撃した。手法がなんとも幼稚であるが、その幼稚さは首相の誕生日に女性番記者が花束を渡すといった吐き気を催すような光景とつながり、職業的倫理観の喪失は記者クラブの構成員たちも変わることがない。安倍は頻繁に記者たちとの会食を開いて彼らを懐柔した。曽我豪という朝日の政治部の記者が毎回それに出席していること知った時から、私はこの記者の署名記事は一切読まないし、朝日新聞の購読の打ち切りも考えた。番犬ならぬ番記者が主人から飯をおごってもらう。このような事実が報道された時、私は我が目を疑った。欧米のジャーナリストが取材対象から饗応を受けるといったことがありえるだろうか。通常であれば馘首されても仕方のない行為を大手マスコミの関係者が行っていると知った時から、私はもはやこの国のジャーナリズムに一切の信頼と尊敬を置かなくなった。

 曽我も本書の中に登場する。曽我は渡辺勉というもう一人の記者とともに政治部の両雄と呼ばれ、鮫島とは本書で詳述される微妙な確執がある。本書の中では政治家の政争と同様に、朝日新聞社内の暗闘も描かれているが、私にはさほど興味がない。組織であればかかる暗闘はつきものであろうが、その中で生き残るのが保身に長けた愚劣な手合いであることもほぼ予想がつくからだ。鮫島も新聞社の中枢部から時に厚遇され、時に疎んじられて様々な部局を経験する。鮫島が最も輝いたのは特別報道部と呼ばれる調査報道のチームのキャップの任にあった頃であろう。抜いた抜かれた、特ダネ、特オチといった報道の最前線から離れてじっくり一つのテーマに取り組む調査報道は鮫島に向いていたのであろうし、確かに新聞というメディアでしか不可能な取材態勢であったかもしれない。鮫島は本書で詳述されるいくつかのテーマと関わり、その中の一つ、「手抜き除染」についての報道によって新協会賞を受賞する。この時のテーマが原子力災害と関わっていたこと、受賞の席に同席したのが木村社長であったことは不思議な暗合であろう。朝日新聞の調査報道の徹底性については原子力災害に関わる様々な愚行を追求し、このブログでも論じた「プロメテウスの罠」で私も感心した覚えがある。実際に「吉田調書」をスクープした記者の一人はこの企画に深く関わっていた。ただし鮫島自身は特別報道部を「プロメテウス専従チーム」にしたためにほかの成果が上がらなかったとして、この企画に対してやや批判的である。この点は「手抜き除染」報道以来、自身が確たる成果を上げられなかったことについての嫉妬があるように感じるのは意地悪過ぎる見方であろうか。

 ほぼ冤罪に近いとはいえ、「吉田調書」問題に関する社内での査問は相当に厳しかったらしい。かかる理不尽にもかかわらず、鮫島が辞職することなく、懲罰的な知的財産室での勤務や「論座」の編集に携わったことは、なおも朝日新聞への愛着があったことを暗示しているだろう。しかし自らも関わった「論座」寄稿者に関わる社内での批判と結果としての編集長の解任、そして社内に批判の声があったにもかかわらず東京オリンピックのスポンサーに加わったことによって、ついに鮫島は早期退職制度に応じるかたちで朝日新聞社を退社し、SNS上に自らのメディアを立ち上げた。最後の部分に鮫島が自身のツイッターに投稿した記事に関する会社との応酬が触れられているが、ツイッター上であっても個人に自由な発言を許さない気風は公私の区別がない日本特有であろうし、新聞というメディアとSNSの相性の悪さを示す出来事である。私は日本の大新聞はもはや調査報道以外に存在理由を失っていると考える。記者クラブが垂れ流す大本営発表の記事は百害あって一利なく、スポーツ欄にせよ株式欄にせよ速報性という点ではSNSの後を追っている。政治家との会食に嬉々として出かけるような御用ジャーナリストを飼っている組織に何の意味があるだろうか。むろんそれはこのような卑しい人間たちに見合った卑しい政治家たちによってもたらされた事態かもしれない。しかし本書を読む限り、このような卑しさは官僚主義やエリート主義に毒された大新聞社の中に既に胚胎しており、鮫島の書きぶりもまたそれらと無縁ではない。そもそも「竹中平蔵に食い込んだ記者」であることを誇るような者に安倍を批判する資格があるだろうか。本書を興味深く読んだが、私は著者である鮫島に特に共感することもなかった。

 最後に一点、不審に感じた点を記しておく。本書には多くの朝日新聞記者が実名で登場するが、原子力災害をめぐる暗闘について優れたルポを残した大鹿靖明の名が一度も登場しない。このブログでも触れた「メルトダウン」だ。大鹿は経済部とのことであるから、政治部の鮫島とは関係が薄いのかもしれないが、同じ問題を扱った同じ新聞社の記者について著書はおろか名前さえ触れられていないのはなぜだろう。


# by gravity97 | 2022-09-07 20:19 | ノンフィクション | Comments(0)